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「無宗教からの「歎異抄」読解」著者:阿満 利麿

「南無阿弥陀仏」
阿弥陀さんが「私の名前を唱えなさい」と言われたので、唱える。


・念仏を、自分で唱えるのでは無い。
・善を行う、悪を行う、どちらも意識してやらなくてよい。
・寺に寄付しなくても良い。
→ギブ アンド テイク、ポイント制、積み上げてどうなるというモノでは無い。


徹底的に自分で行う(自力:じりき)を否定する。
かと言って、
「そんなデモに参加するより、念仏を唱えよ」なんて言葉も自力を促していることになる。


個人と阿弥陀さんの契約に近い感じ。
そして、個人は一人で生きているわけで無く、様々な縁があるので、自分の周りも良くしておく。
しかし、阿弥陀さんが本当に助けてくれるか、わからない。


確か、キリスト教も天国に行けるかどうかはわからない、ってなのがあったと思う。
(でも、裏で自分はこれだけ信じているので天国に行けるとか、勝手に思う。それが、宗教か)


さて、
知れば知るほど、親鸞さんの教えが「なぜ、集団の宗教になるのか」わからない。
上記の通り、個人と阿弥陀さんでの関係で成り立つものだからである。
「他人になんと言われようとも、私は阿弥陀さんに縁をもらったので、安心して生きます!」
で、もう念仏を長い間唱える事も必要無いし、寺にコモって修行するより、普通に生活するのが、よっぽど”自力でやってる”と間違う事が無い。


唯円さんが嘆く状態が続いてるんじゃないか?

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