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「手で見るいのち」著者:柳楽 未来

我々は、眼が見えている事にあぐらをかいてないか?
見えている事に頼り過ぎてないか?
「見ればわかるだろう」で、視えなくなってしまった事が、どれぐらいあるのだろう。


あー、イイ本に出会ったなー! コンチクショー!
これだから本読みはヤメラレナイ。


全盲の生徒に生物を教える授業を取材した本である。


・授業の風景。
・全盲の生徒へ「生物」を教える授業が出来るまでの歴史。
・全盲の生徒が生物科や化学科などへの大学に入るための挑戦。全大学が受け入れ拒否の中、一つの大学が受け入れを決断。
・全盲の人、見える人が混じった「自然を楽しむワークショップ」の紹介。


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本の冒頭、全盲の生徒が動物の骨を触る授業風景から始まる。
「牙がアゴの中までくいこんでる」
「臼歯が大きい、肉食かもしれない」・・・
などなど、たくさんの豊かな言葉による説明と鋭い推測がとびかう。
なんじゃ、シャーロックホームズの集団か? それとも、FBI心理捜査官のプロファイリング訓練学校か?


驚きと共に、私は恐ろしくなってしまった。


「うざい」、美味しい表現も何もかも「ヤバい」と語集が貧困な子供たちよりも、何と豊かな言葉が話されている事か!
この子供たちが大人になったら眼が見えている人達なんて、それこそ本当に目じゃ無い!


全然、違う話になるが、
何もかも「うざい」とささくれている子に、親が「「うざい」という言葉は禁止、詳細に説明しなさい」と注意したところ、だんだんとささくれるのが無くなってきたそうだ。
言葉の省略は、心を貧困にするのかもしれない。
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全盲の生徒へ「生物」を教える授業を最初に作った青柳先生。
「近くに飛んでいる蝶の話もしないで、教室で遺伝の話をするのは、歪んだ生物の授業だ」(ちょっと言い方はうろ覚え)
観察しない知識だけの詰め込みは、おかしい。


青柳先生以前の生物の授業は、話だけの授業だった。
それを上記の思想から、自然にある葉や木、骨を触って観察する授業を創った。


それを体系的に授業に整理した鳥山先生。
それを受け継いだ武田先生。
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全盲の生徒を受け入れる事に決めた大学。


化学・物理は、分子・原子、宇宙など目に見えない世界も扱っている。
見えない世界を扱っているのに、眼が見えない事にどんな支障があろうか。


全盲の生徒を受け入れた後、大学院生の一人がサポートに入った。
大学院生は考える「数々の実験は、どういう意図でなされるのか?」
目が見えない人に教えるからこそ、原点に立ち戻って考える事ができた。
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全盲の人、見える人が混じった「自然を楽しむワークショップ」の紹介。


見える人が、ワークショップが開かれる前に公園を周った。2時間で一通り周れた。
ワークショップが開かれると、2時間で距離は10分の1しか進まなかった。
しかし、「この葉は、ちぎるとフレッシュな匂いがする」「葉がざらざらして、気持ちイイ」などなど、一つの木や葉に集中して感想を言い合う。距離は全然進まないが、味わい深い発見がグループで共有されていく。


普通の「自然を楽しむ」と銘打ったツアーは、全部ガイドが説明して終ってしまうが、上記のワークショップは、参加者全員が本当に参加して満足して帰る。
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学ぶって、なんじゃ?

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