ミケハのブログ

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「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」著者:ラメッシ・バルセカール

マハラジさんの近くにいた通訳者の方が、湧き上がって書いた本。
マハラジさんと訪問者の方々との質疑応答が多く収録されています。
内容も、理解の順序に沿っているような気がします。
マハラジさんの人柄が面白かった。


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さて、ここからは私の受け取った事なので、誤解もある。
だらだらと、どうでも良いことを書く。
そして、(自分が勝手に考え続けるので)ご教授は不要。


他の本では「私が在る」というキーワードだが、この本では「意識である」とする。
この「意識」というのも、「私の意識」という意味では無く、普遍的な意識、原初的な意識の事。


体、感覚、知識、記憶などなど、全部無くした時に残るモノ。
その残るモノが「意識」。


個人的な幸福追及については、マハラジさんは質問を許さない。
しかし、ちょっと解説している章もある。
自分の期待に沿わなければ「不幸」と思うが、時間が経てばそれが「幸福」だったと思うかもしれない。
「不幸」も「幸福」も「私」に囚われているだけである。


本体が「意識」なのに、いつの間にか「影」である「私」という思いに囚われて、「私」から発せられる疑問や質問には意味が無い。
そもそも「私」が無いのだから、ただ「本体=意識」に戻る?という事をすれば良いだけである。
なので、「解放」も「悟り」なんてのも「私」に囚われている側から考えるから「ある」と思っているだけで、「解放」も「悟り」も単なる観念である。


生きている経過によって、価値観、知識、空気を読むなどの暗黙の了解みたいなものが蓄積されるが、すべて観念である。


自分が認識するからこそ「世界」がある。よって、自分が世界である。
自分が居ない世界なんてのを考える事が出来るが、それは単なる観念である。


輪廻転生、前世なんてのも、この世の因果で考えて(妄想して)、こういう世界があるのかも?なんていう観念でしか無い。


生まれるから死ぬ、始まりがあるから終わりがある。
しかし、生死は無い。生まれる前も、死んだ後も「普遍的意識」に戻るだけである。
いや、戻るという表現もおかしいか。生きている時も「普遍的意識」の中だ。


自分が「意識」であると了解した上で、この人生は、俳優が一生懸命に演じ続けている劇である。


なんだか、わかったような、わからんような。


昔の中国の民話を思い出す。(うろ覚えです。)
ある時、「超自然的な何か」が居た。
その「超自然的な何か」には、五感がなかったので周囲の神的なモノ達が、五感の穴を開けてあげた。
そしたら「超自然的な何か」は死んでしまった。


(人間を表しているようで面白い。)


有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る一休(ひとやすみ)
雨ふらば降れ風ふかば吹け

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