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「僕のフォーカシング=カウンセリング:ひとときの生を言い表す」著者:池見 陽

池見流フォーカシング、実際のカウンセリング場面のやりとりも入ってる小説的な本。
面白かったぞい。


TRPG(テーブルトークアールピージー)という遊びでリプレイ本というのがあって、
脚本みたいな実際話した内容を「テープ起こし」し、遊んだ人のその時振り返った感想も入れたような本がある。
それに似ている。


そういえば、昔、フォーカシングの本を読みまくり、フォーカシングも実際受けてみた。
受けてみた感想は、お金払ってまでやらんでも、一人で出来るかな~という印象。


さて、
フォーカシングを受ける者はフォーカサー(=クライアント)。誘導する者はリスナーと言うらしい。


>池見流のリスナーの3条件。
1.自己一致。
2.存在を認める。
3.共に感じる、または、リスナーの心の中にもフォーカサーの感じている風景を描いてみる。


フォーカシングの本で「受容と共感」なんて書いてあるが、上記1のリスナーの自己一致が実は非常に重要。
また、受容は上記2だが、受け身的なモノでなく、「認める」というウェイトの方が強い。
共感も上記3のように、リスナーが能動的に自分の心にもクライアントと同じ風景を描く。
なので、リスナーがついていけない、描けない場合は、素直にフォーカサーにどういう風景か聞いてしまう。


そして、自分は統一されているような同一のモノでは無いという前提に立つ。
確かに、自分と言うてはみても考えると「自分」とはつかめない。
自分がいると言ってみても、もうその考えている「自分」はちょっと前の自分なのだ。
もう、0.3秒でも積み重なっている自分が居る。
となると、自分なんて規定はできないのでは?
スマナサーラさんが「我思うゆえに我あり」なんて、我なんて無いのに迷いのモトを生み出してバカだ、ぐらいな勢いで言っていたのを思いだす。


記憶により固定された思いを「言い表し」、動きをウナガす。
池見流フォーカシングは、静かでダイナミックなフォーカシングだった。
このフォーカシングなら受けてみたいと思った。

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