ミケハのブログ

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お店のルールから、宗教的な修行までを考える

#単なる妄想的な考えです。


例えば飲食店で、創業者が
「スマホを操作していると、休んでいるように見えて脳は休まってない。うちの店内では脳を休ませるため、『スマホはご遠慮ください』とルールを決めよう」
と、お客様のためを思ってのルール決めたとする。
お店の中でスマホをしてても「お客様の緊急連絡かもしれないから、まあ良いでしょう」と軽めのルール運用。


でも、「スマホご遠慮ください」のルールだけが一人歩きして「脳を休ませる」という説明が無いと、店員の中では「うちでは絶対スマホ禁止じゃ! 他のお客様の迷惑になるからだろう!」と絶対禁止に解釈する人も出てくる。
すると、創業者としては「真の意味がわからずしてルールを運用しているなら、そんなルール運用はやめてくれ」となる。


話変わって、
お釈迦様は、色々な人達を教えていたが、その人の状態を見て、その人に合うように教えていたそうだ。
という事は、修行の方法も、各人に合うような方法が指示されていたのでは?と思ってしまう。


想像>各人の修行の支持
Aさん「私は、動いても良いが、黙っていなさいと指示されました」
Bさん「私は、しゃべっても良いが、座っていなさいと指示されました」
Cさん「私は、足が痛くて座れないので、寝ててもいいので、穏やかな心でいなさいと指示されました」
Dさん「私は、がっちり足を組みなさいと指示されました」


上記の話を聞いて、修行のプログラムをまとめようとするEさん。
「修行では厳しい方が修行になるだろう。”黙って””座って””がっちり足を組んで””穏やかな心で”修行しなさいと、お釈迦様は指示されました、と本に記載しよう!」


なーんて感じで、今伝わっている修行方法は、全然各人に合っていない方法が伝わっていたりして(笑)と考えた。
なんか、形骸化してしまっている事って結構あるんじゃないか?!

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